AC4K9419.jpgわが勤労者医療生協が40周年を迎えることになりました。人なら壮年。ますます輝く年頃です。

 思えば40年前、柳楽、久米両医師とともに大分の現場医療に関わることになり、「原則の柳楽、旗振りの山本、後始末の久米」などと言われ(実態はかなりずれがあります)ましたが、どうにかこうにか40年間潰さずにここまで歩んで来れたことは冷や汗を感じながらも望外の喜びです。当時まだ駆け出しの医者だった小生は、まあ5年くらい大分で頑張ってみるか程度の思いでの当地への関わりでした。大分診療所の柳楽医師、佐伯診療所の久米医師、そして遊軍の山本として小生は、当初は県北地域のずい道出稼ぎのフィールドワークやじん肺肺がん訴訟への医学証人などをしながら、大分での活動を自分の仕事としてより強く感じるようになりました。東大、産業医大、愛知がんセンターの有名医師たちと法廷での論争を行い、裁判は勝てませんでしたが、結果的に国、労働省の方針を変更させ、じん肺に合併した肺がんは全て業務上認定されることにつなげたのは大きな収穫でした。

 しかし、小生にとって何より大きな転機となったのは、ある難病患者さんとの出会いでした。それは1990年の春、県立病院でALSと診断されたばかりの50代の女性でした。痰がからんで苦しい、診てもらえないかとある春の日の夕方病院に夫とともに来られました。その方との関わりを天命と感じ、この疾患にとことん付き合おうと決意しました。当初は、社会的入院が批判され、長期入院が出来なくなるような社会情勢のなかで、この難病の方々は病院から追い出さないぞと考えたものです。しかし、その女性や、同じ疾患の多くの方が在宅療養を望んでいることを知りました。1995年に東京帰りの男性患者が、ALSは病気ではなく重度の障害に過ぎないと喝破され、当時の不十分な支援体制のなか人工呼吸器を携え在宅に戻られました。そしてこの先人の在宅開始から10年後には、大分では20人のALS患者が人工呼吸器での在宅療養をする、日本一在宅難病療養率の高い町となりました。この背景には、当事者が患者会を作り行政に対し積極的に支援を求めただけでなく、多くの介護者、看護者そして保健所を初めとする行政の皆さんの高い共感と意欲がありました。この病気になるほどの不幸はそうないが、大分でなってまだ良かった、そう患者さんに言われような町にしようという決意、共同理念が絆となり皆をまとめたといって過言ではありません。わが大分協和病院がこの一翼を一貫して担えていることを喜びとして理事長挨拶としたいと思います。